そばにいた高官たちは英祖の怒りを解こうとしたが、それは無理だった。
英祖の決意はあまりに固かった。そして、王命を発した。
「たったいま、世子を廃した」
それは、思悼世子を国王の後継者にしないという宣言だった。思悼世子は慟哭(どうこく)した。
英祖は何度も思悼世子に自害を促した。しかし、その覚悟がないと知ると、米びつをもってこさせた。
「命だけは助けてください」
思悼世子は何度も哀願したが、英祖は無視して、息子を米びつに閉じ込めさせた。その上で、英祖は鬼の形相で米びつをにらんだ。
「絶対に米びつを開けてはならない」
そう厳しく命令して英祖は立ち去った。彼の決意は変わらなかった。
翌日に英祖は具体的な処罰を行なった。思悼世子と一緒につるんでいた宦官(かんがん/去勢された官僚)や尼僧が処刑された。他にも、思悼世子と遊興した5人の妓生(キセン/宴席で歌や踊りを披露する女性)が殺された。
思悼世子を米びつに閉じ込めてから6日目、英祖は思悼世子を補佐していた側近のほとんどを罷免した。
このとき、思悼世子の生死はどのようになっていたのか。
食料も水も与えられず狭い空間に閉じ込められたままだった。8日目に米びつをあけてみたら、すでに思悼世子は絶命していた。世子なのに、いつ亡くなったのかもわからなかった。
実際に息子を失ってから、英祖は急に後悔し始めた。しかし、後の祭だった。
英祖がそこまで後悔するなら、早く米びつを開けてあげれば良かったのだが……。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)