朝鮮王朝には42人の王妃がいたが、中でも慈愛に包まれた人格者の王妃が5人いた。その5人を順に紹介していこう。
◆昭憲王后(ソホンワン) [1395~1446年]
4代王・世宗(セジョン)の正妻。名家の出身で、13歳のときに世宗と結婚した。性格が温和で、王妃にふさわしい女性だった。世宗との間に10人もの子を産み、そのうちの8人は男子だった。ただし、世宗の父の太宗(テジョン)は、彼女の実家が外戚として力をつけすぎたことを警戒して没落させた。
◆顕徳王后(ヒョンドクワンフ) [1418~1441年]
5代王・文宗(ムンジョン)の正妻。1441年に後の6代王・端宗(タンジョン)を出産した直後に急死してしまった。その後に文宗は新たな正室をもとうとしなかった。それほど、文宗は顕徳王后を愛していたのである。
◆端敬王后(タンギョンワンフ) [1487~1557年]
11代王・中宗(チュンジョン)の最初の正妻。クーデターで中宗が王に上がるとき、不安にかられた夫を精神的に支えた。しかし、叔母が燕山君(ヨンサングン)の正妻であったことが問題となり、王妃になってすぐ廃妃の憂き目にあった。韓国時代劇『七日の王妃』のヒロインになっている。
◆仁顕王后(イニョンワンフ) [1667~1701年]
19代王・粛宗(スクチョン)の正妻。粛宗が張禧嬪(チャン・ヒビン)を寵愛したために、1689年に廃妃となってしまうが、1694年に復位を果たした。誰からも慕われたが、病弱で子供を産むことができず、1701年に34歳で亡くなった。時代劇『トンイ』では慈愛に満ちた王妃として描かれている。
◆孝懿王后(ヒョウィワンフ) [1753~1821年]
22代王・正祖(チョンジョ)の正妻。とても人格者で、宮中で誰もが尊敬するほど評判が良かった。ドラマ『イ・サン』にも登場していた。正祖との間で子供を宿すことはできず、1821年に68歳で亡くなった。今でも韓国で「もっとも徳があった王妃」として記憶されている。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
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