忘れられない取材がある。1998年10月に東南アジアのタイ・チェンマイでの取材だ。
そのとき、チェンマイでは第31回アジアユース(U-19)選手権が行われた。
当時、日本は清雲栄純監督がチームを率い、小野伸二、稲本潤一、高原直泰、中田浩二、本山雅志、小笠原満男、播戸竜二などそうそうたる顔ぶれが揃っていた。いわば“黄金世代”だ。
韓国も同様だった。19歳で1998年ワールドカップに出場したイ・ドングッをはじめ、2002年ワールドカップで活躍したソン・ジョングッやソル・ギヒョンがいたし、キム・ウンジュン(元仙台)、パク・トンヒョク(元柏レイソル)、ソ・グァンス(元岐阜)など、その後、Jリーグにやってくる選手もいた。
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そんな選手たちが激突。日本と韓国はグループリーグでまず対決し、決勝戦でも雌雄を決する。ともに勝利したのは韓国で、日本は準優勝に終わったが、両雄にはピッチでの激しい対決とは別に、もうひとつの知られざるエピソードがあったことをご存じだろうか。
私はそのエピソードの目撃者でもある。
それは決勝戦を終えた夜。U-19韓国代表を率いたパク・チャンソン監督の部屋でインタビューを終えたあとのことだった。
部屋を出てフロアの廊下を歩いていると、イ・ドングッとパク・ドンヒョクに呼び止められたのだ。
「ちょっと僕らの部屋に来てくれますか?」
言われるがままイ・ドングッの部屋に行ってみると、そこには日本の播戸竜二と小笠原満男がいるではないか。
話を聞いて見ると、同じホテルに宿泊していた日韓の若手選手たちは大会期間中に顔を合わせることで仲良くなり、2人は別れの挨拶をしにイ・ドングッの部屋を訪ねたという。
ただ、言葉が通じず、うまくコミュニケーションできなかったところに、日本語と韓国語がしゃべれる私が通りかかったということで、急遽、日韓選手の通訳を務めることになったのだ。
そのときのことは『週刊サッカーダイジェスト』(1998年12月2日号)に寄稿したが、その記事をここに再現したい。
アジアユース後、イ・ドングッが思いもしなかった事実を教えてくれた。
「実はね、この前、播戸が僕らの部屋に遊びにきたんだ。身振り手振りの会話だったけど、お互い通じ合えたと思うよ」
日本の選手が韓国の選手の部屋を訪ねて、ひとときを過ごした。イ・ドングッからその話を聞いたとき、正直、耳を疑った。いくら同じホテルに滞在しているとはいえ、大会中にそのような交流があるとは信じられなかった。
何らかの企画で日韓サポーター同士の対談や、市民レベルでの交流会をセッティングした経験から感じる「どうせ形だけの交流なのだろう」と疑ったりもした。
しかし、それは大きな間違いだった。日本と韓国の選手たちは、建前上の交流のためでもなければ誰かに強要されたわけでもなかった。
自ら韓国選手の部屋に出向いた播戸はこう振り返った。
「大会前にバンコクで日韓の選手がニアミスしたんです。僕の座席のすぐ後ろに韓国の選手がいた。第一印象は“人相が悪い”(笑)。でも、実は結構イイ奴らだった。ホテルのエレベーターで“部屋に遊びにこないか?”と誘われて、すぐに訪問しましたよ」
バンコクの空港で顔見知りになった播戸と韓国の選手たちは、チェンマイのホテルでも挨拶を交わす仲となり、気がつくと日韓両国の選手が会釈程度の挨拶を交わすようになっていた。
グループリーグで対決した夜には、韓国チームのキャプテンだったキム・ゴンヒョンが小野伸二を呼び止め、お互いの健闘を称え合い、決勝でも日韓対決しようと誓い合ったという。
「小野とはU-16のときも試合をしたことがあったからお互いよく覚えていたし、背番号も同じでキャプテン同士だったから、親近感が湧いた。プレーだけでなく人間的にも素晴らしいヤツだったしね! 試合では激しくぶつかったけど、一言伝えたかったんだ。決勝でまたやろうって」(キム・ゴンヒョン)
こうした交流を重ねながら、決勝戦を戦った日本と韓国。あの激しい試合の陰で、日韓イレブンが急接近していたとは、思いもよらないことだった。
しかし、さらに驚くべきことが決勝の後に起こった。両国のコーチングスタッフも寝静まった深夜、イ・ドングッとキム・ウンジュンの部屋に日韓イレブンが集い、朝まで討論会ならぬ、朝まで交流会が開かれたのだ。
初めはイ・ドングッ、キム・ウンジュン、チョン・ヨンフン、パク・ドンヒョクといった韓国選手と、播戸、小笠原の日本人選手の交流だった。
そこに入れ替わり立ち代わり韓国選手が出入りしているうちに、「日本選手をもっと招待しよう」とイ・ドングッが言い出した。
この提案に全員が賛成し、皆で日本選手を迎えに行くことになったのだが、深夜12時過ぎの招待。ソル・ギヒョンやイ・ユンソプは「断られるのではないか」と心配していだが、日本選手はそれほど付き合いの悪い“ヤツら”ではなかった。
小野、本山、金子聖司、稲本、高原、酒井といった面々たちが、盛り上げ役に徹するチョン・ヨンフンと中田浩二に連れられて、交流会に加わったのである。
本山とキム・ウンジュンは交換したユニホームに袖を通し、写真を撮った。2度戦ったことで、日韓の距離はグッと縮まっていた。後はお互いの質問攻めである。
「Jリーグで一番うまい選手は誰?」「韓国には兵役があるの?」「オレは3回韓国行ったことがあるよ」 「日本とは高校時代から交流戦やってるんだ」
両国の事情を話し合い、 ときには笑い転げながら日韓サッカー比較談義に花を咲かせた。
「中田英寿とコ・ジョンスはどちらがうまいか?」「フランスW杯で日韓ともに勝利できなかった要因は何か」など、内容は多岐にわたり、2度の対戦を振り返りお互いの弱点についても意見を交換しあった。
いつしか話題は若者文化の流行や、韓国人の日本観と日本人の韓国観といった話まで及び、何人かの選手は電話番号を交換した。
ただ、楽しければ楽しいほど、時間は早く過ぎていく。気が付くと時計は午前5時を回り、韓国選手がホテルを引き払って出発する時間が迫ってきていた。
そんななかで、誰かが突然言い出した。
「表彰式の関係で決勝戦の後に交換できなかったユニホームを、今ここで交換しよう!!」
この提案を受けて、皆がユニホームを交換しエールを交わした。
「今度は負けない」「ワールドユースで会おう!」 「これからもよろしく」「話ができてよかった」
言葉はさまざまだが、どの顔も満足感でいっぱいだった。90分間戦い、夜通しで語り明かしたのに、疲れた表情を見せる者は誰一人としていなかった。
ただ、ひとりだけ寂しそうな表情を浮かべていたのは韓国のソ・ガンスだった。
天才MFと呼ばれ、サッカーを始めたころから韓国サッカー界のエリート街道を歩いてきた彼は、アジアユースで初めて挫折を味わっていた。予備メンバーとして、大会にはエントリーされなかったのである。
それでも腐ることなく、毎晩ランニングをしていたのだが、そのソ・ガンスだけはユニホームを交換できずにいた。韓国選手が10人以上いたのに対し、日本選手は8人しかいなかったからだ。
そんな彼の浮かない表情に気づいたのが、小野、小笠原、中田浩の3人だった。彼らはソ・ガンスを日本の選手が宿泊するフロアまで連れていき待たせると、1枚の日本代表ユニホームを手にして戻り、それをソ・ガンスに手渡したのだ。
ソ・ガンスは言う。
「おそらく、ボクはワールドユースを戦うメンバーには選ばれない。だから、どうしても日本の選手とユニホームを交換したかったんだ。日本とはU-16でも対戦したけど、ユニホームを交換できなかったし、たとえ予備メンバーでもアジアユースに参加して日本の選手と交流を持てた証がほしかったんだ。
だから3人がボクのために走り回っているのを見たとき、ホントにうれしかったよ! このユニホームを励みに2002年に向けてがんばりたい」
2002年。それは別れ際に日韓両国の選手が何度も口にした言葉だった。思い出すのはイ・ドングッの一言である。
「日韓ともに今回のユース代表で2002年のワールドカップを戦えたらいいなぁ。その日がくるまで互いに切磋琢磨し、そして4年後にも今回のように夜通しで語り合いたい!」
くしくもイ・ドングッの言葉と似たようなことを、小野伸二も口にしていた。
「あの夜のことは絶対に忘れない。これからも、あんな交流があればいい。韓国とはこれまで何度も対戦したけど、お互いに頑張って、アジアから世界に飛び出したい」
使う言葉も、育った環境も異なる2人が語った共通の未来。今までは宿命のライバルということだけに終始しがちだった日韓だが、ライバルであると同時に、最高のパートナーになろう。そう言っているようだった。
付け加えるなら旧世代のパク監督も、日韓は宿命のライバルであると同時に、同伴者になるべきだと語った。
その意思の表れが、 2度の日韓戦の直後に取った行動だったと思う。
試合終了のホイッスルが鳴った後、韓国の選手たちは自軍のベンチには戻らず、まずは日本のベンチ前に整列し、清雲栄純監督以下、日本のスタッフに一礼したのだ。
それは、日本の実力を認め、対戦できたことを感謝するという意思の表れで、 パク監督が試合前に指示していたものだった。
「負けても勝っても、選手たちには日本のベンチに挨拶するように指示した。日本は今後もライバルだけど、我々のパートナーでもあるからね」
2002年ワールドカップが開催されるとき、今回の大会に参加した日韓両国の選手は23歳になっている。
彼らの今後にどんな未来が待ち受けているかはわからないが、これだけははっきりしている。
彼らは新しい時代の扉を切り開く可能性を持っている。 日韓サッカー新時代の夜明けは、もう目の前にきているのかもしれない。
あれから20年の歳月が過ぎたが、今でも“チェンマイの夜”のことは忘れられない。あの夜の出来事こそが、今でも日韓サッカー報道に携わる私の原点になっている。
(文=慎 武宏)
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