NHKの総合テレビで日曜日の午後11時から放送されている『不滅の恋人』。このドラマの中で強烈な個性を見せるイ・ガンは、歴史上の世祖(セジョ)をモデルにしている。果たして、世祖とはどういう人物だったのか。
【関連】『不滅の恋人』の王子2人は歴史的にどんな人物だったのか
彼は王子のときには首陽大君(スヤンデグン)と呼ばれていた。
最高の名君と評された4代王・世宗(セジョン)の二男である。
野心家だったが、二男である以上、自分が王になれないことは覚悟していた。一縷の望みは捨てていないとしても……。
その一縷の望みとは、兄の文宗(ムンジョン)が病弱だったことだ。案の定、文宗は1450年に即位して5代王になったが、わずか2年3か月の在位で亡くなった。学識に優れていた上に温厚な性格だったので、その死を誰もが惜しんだ。
後継者は文宗の息子で、1452年に即位して端宗(タンジョン)となった。まだ11歳だった。文宗は亡くなるまで端宗のことを心配していて、しっかり守ってくれるように側近たちに頼んでいた。
その側近たちがもっとも警戒したのが首陽大君だった。彼は幼い王を補佐するという名目で、王権にことごとく干渉してきた。
そして、ついに「陰謀の嫌疑あり」という理由で端宗の側近たちを次々に殺害。端宗に対しても強圧的な態度を取った。
24歳も上の叔父におどかされて、ついに端宗は王位を譲らざるをえなくなった。こうして首陽大君は1455年に7代王の世祖になった。しかし、世祖への風当たりは強かった。
「泥棒のように王位を奪った」世間ではみんながこう話した。
世宗時代からの忠臣の間では、端宗の復位を狙う動きが起こった。しかし、世祖はこの動きを力ずくで抑えつけた。その際には、むごたらしい血が数多く流された。
端宗が生きていては安心できない、と感じた世祖は、端宗を流刑にしたうえで死薬を与えて殺した。端宗はまだ16歳だった。
聖君と崇められる世宗の二男が、これほどの非道を繰り返したのだ。
そんな世祖の治世は1468年まで13年間続いた。彼は王朝の基本法典である「経国大典」の編纂に功績があり、王権の強化という面でも実力を発揮した。
しかし、晩年の世祖は苦しんだ。
長男が19歳で夭逝したことも世祖にとって痛手だった。ちなみに、世祖の後を継いで8代王になった二男も19歳の若さで亡くなっている。
重なった悲劇……世間は「因果応報」と噂した。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
前へ
次へ