漫画オタクから若き巨匠へ。『パラサイト』ポン・ジュノ監督の52年人生を振り返る

2020年02月12日 話題 #韓国映画

静かでおとなしかった“漫画オタク”は、いかにしてアカデミー賞受賞の“若き巨匠”になれたのか。

約20年前、シナリオ作家兼助監督として忠武路(チュンムロ/米ハリウッドのような映画の街)に足を踏み入れたポン・ジュノ監督。

彼は当時、月20万ウォン(2万円)の給料による深刻な生活苦に喘ぎ、監督デビュー作『ほえる犬は噛まない』(2000年)の累計観客動員数が5万7469人という大失敗を経験した。

それから20年経った2020年2月10日、ポン・ジュノ監督は「第92回アカデミー賞」で最高賞にあたる作品賞をはじめ、脚本賞、監督賞、国際長編映画賞の4冠を達成、世界が愛する巨匠となる。

【インタビュー】ポン・ジュノ監督が語る、クリエイターとしての姿勢

ここで、家族や知人、本人のインタビューを通じて、ポン・ジュノ監督が歩んだ52年の人生を振り返ってみよう。

ポン・ジュノ監督

本好きの子供時代

ポン・ジュノ監督は子供時代、韓国の第1世代グラフィックデザイナーだった父親、故ポン・サンギュンさんの書斎で様々な本を読み漁ったという。

「美大の教授だった父の書斎には、珍しい西洋の本や映画、建築、デザイン関連の書籍が多かった。弟(ポン・ジュノ)は小さい頃から絵、文学、音楽に親しんだ」と、兄のポン・ジュンス現ソウル大学教授は語った。

ポン・ジュノ監督の母親は、小説『小說家仇甫氏の一日』のパク・テウォン作家の娘で知られる。文化や芸術を享受する自由な雰囲気で育てたポン・ジュノ監督が「映画をやりたい」と切り出した時、「やりたいことは全てやりなさい」と励ましたという。

子供時代のポン・ジュノ監督について、姉のポン・ジヒ硏成大学教授はこう話す。

「静かで口数が少なく、遅かった。勉強はできるしリーダーシップもあったけれど、何か特別な才能があったり、目立つ子ではなかった」

二十歳のポン・ジュノ

映画好きではあったが、延世大学・社会学部に進学した。ポン・ジュノ監督が大学に入った年は、1987年に勃発した「6月民主抗争」の余波で民主化への熱気が広がり、ソウルで世界的なスポーツの祭典、夏季オリンピックが開催された1988年だった。

韓国映画振興委員会の書籍によると、ポン・ジュノ監督は「大学で映画を勉強しなかったから映画監督になれないとは思わなかった。人文学や社会学を勉強しながら、映画サークルで活動したほうが、映画を専攻するよりずっとマシだと思った」と話している。

大学では、「黄色いドア」という映画サークルを作って活動。それまで接したことのない様々な人の生活に触れた大学時代の経験が、のちに映画の中で様々なキャラクターとして具現化された。

映画『パラサイト 半地下の家族』に登場するギウが家庭教師の高額バイトをするという設定も、ポン・ジュノ監督の経験からのものだ。

「大学時代、家庭教師としてお金持ちの中学男子に数学を教えた。まあ、一緒に遊んでいたせいで2カ月でクビになったけど(笑)。その家は、鉄門を開けると庭園が出てくる高級複層別荘であった。2階にはサウナーもあって不思議だった。(劇中の)初めて奥様の面接を受ける感じや、広々とした大理石の床の冷たい感触などを参考にした」

「漫画オタク」としても有名なポン・ジュノ監督は、大学の校内新聞「延世春秋」に、「ヨンドルとセスンちゃん」と題した風刺画も連載した。大学の学費問題や受講申請など大学生が共感を覚えるテーマを、ウィットを効かせて描いたのが特徴である。

映画を作るときも、自ら絵コンテを描くことで有名だ。『パラサイト』でギウ役を演じた俳優チェ・ウシクは、「全てはポン監督の頭の中にある。iPadで絵コンテを描かれるのだが、細かい仕草まで全部記されていてビックリした」と話した。

ポン・ジュノ監督が大学時代に連載した風刺画(左)、映画『パラサイト』の絵コンテ(右)

深刻な生活苦を味わう

2作目の映画『殺人の追憶』(2003年作)が累計観客動員数525万人の大ヒットを記録し、世間に名前を知らしめるまで、ポン・ジュノ監督は深刻な生活苦に苦しめられた。

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