映画界でポン・ジュノは「善良な人」として知られている。ただ映画作りが上手いだけでなく、相手への深い配慮があると評価されており、その人間性が作品にも反映されている印象だ。
ポン監督の映画には、人間に対する深い考察と愛情が込められている。作品の核心に鋭く切り込みながらも、観客の共感を呼び起こしてきた。
例えば、『グエムル―漢江の怪物―』(06)では怪物を通して家族の意味を問い、『母なる証明』(09)では韓国の母親が抱える苦悩を描き、『パラサイト 半地下の家族』(19)では現代社会の階級問題を鋭く描き出した。
こうしたメッセージ性の強い作風から、監督自身も社会的な議論を重視しているように思われがちだが、意外なことに本人はそうした意図を持って映画を作っているわけではないという。
「海外でよく、“社会的な議論や背景に対する深い洞察を持っているのでは?”と聞かれますが、僕は社会学や哲学をしっかり理解しているわけではないし、そういう方向に頭が働くタイプでもないんです。僕の映画作りは、隅っこの小さなアイデアから掘り下げていくうちに、いつの間にか広がっていくような感覚です。『ミッキー17』もそうした流れの中で生まれました」とポン監督。
今回もまた、小さな部分を掘り下げ、拡張していった。焦点を当てたのは主人公ミッキー・バーンズというキャラクターだ。ポン監督の人間愛ゆえだろうか、公開間近の『ミッキー17』にも人類愛が色濃くにじんでいる。
ミッキーは「死ぬべき時が来たら死ななければならない」存在だ。しかし、死ぬとすべての記憶を持ったまま再生されるため、永遠に生き続けるとも言える。この仕組みにより、人類の技術は発展し、新たな惑星への移住も可能となるが、それにもかかわらず、彼は常に軽んじられ、無視され続ける。
「原作小説『Mickey7』はかなり哲学的な内容です。それが悪いわけではないのですが、僕が興味を持ったのは、“もし自分の複製が目の前に現れたら、どんな気持ちになるだろう?”というシンプルな問いでした。極限の労働環境で、何度も死んでは再生されるミッキーの立場を考えていくうちに、その存在が社会の中でどう扱われるのかというテーマへと発展していったんです。彼は最も重要な仕事を担っているのに、周囲からは冷遇され、見下される。まさに“使い捨て”の存在ですよね」
しかし、そんなミッキーを見下す人間とは対照的に、宇宙に存在する異星生命体「クリーパー」たちは彼を尊重し、命を救おうとする。人間が当然のように彼の死を受け入れているなか、意外な場面でクリーパーの選択によって物語は一気に予想外の展開を迎え、騒動へと発展する。この流れは、まるで『パラサイト』でイ・ジョンウン演じる家政婦のムングァンが突然屋敷に戻ってきた時の衝撃的な展開を思わせる。
「クリーパーは、常に誰かを救おうとします。物語の後半では、彼らが命を守るために決してある境界を越えようとしません。一人の青年を描くことから始まり、そこまでの広がりを持つ物語になったんです」
映画というのは、監督が意図して作り出すものでありながら、公開された瞬間に観客に委ねられる。多くの人々が、それぞれの視点で作品を解釈し、そこから新たなメッセージが生まれていく。監督にとって、それは映画が持つ特別な魅力であり、祝福でもある。とはいえ、ポン監督が最も望んでいるのは、ただひとつ。観客が夢中になって映画を楽しむことなのだ。
「以前、劇場で観客がユーチューブを見ている姿を目撃したことがあるんです。確か『メブルショー』だったかな。もし誰かが僕の映画を観ながらそんなふうにスマホを開いていたら、僕はとても傷つくと思います。僕が本当に求めているのは、観客が映画に完全に没入すること。スマホを開く暇もないほど、映画に引き込まれてほしいんです。僕の目的は“楽しさと美しさ”なんですよ」
ポン監督は、観客が家に帰り、ベッドに横たわった時にふと映画のワンシーンやセリフを思い出し、共感しながら少しずつ心に染み込んでいくような作品を作りたいのだという。それはクリエイターとして、極めてシンプルな美学だ。
「メッセージをフォークで突き刺して無理やり食べさせるようなことはしたくないんです」
それは、観る者が自然に感じ取り、自ら考える余白のある映画こそが、本当の意味で心に残るものだという信念なのだろう。
『ミッキー17』でポン・ジュノは、どんな至極の一皿を観客に振る舞うのだろうか――。
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