イ・ソジンが主演した時代劇『イ・サン』は、22代王・正祖(チョンジョ)の壮大な一代記だった。このドラマにも登場した個性的な5人の王宮女性にスポットを当ててみよう。
◆恵慶宮(ヘギョングン) 〔1735~1815年〕
正祖の母である。
21代王・英祖(ヨンジョ)の息子の思悼(サド)世子と結婚した。当初は夫婦も仲が良かったが、後に険悪な関係となり、恵慶宮は夫を激しく非難するようになった。
思悼世子は父の英祖によって米びつに閉じ込められて1762年に餓死し、恵慶宮も世子嬪の資格を失った。しかし、息子の正祖が王位にあがり、王宮内での立場を強めた。
正祖亡きあとも実家の名誉回復に奔走し、1815年に80歳で世を去った。
◆貞純王后(チョンスンワンフ) [1745~1805年]
英祖の二番目の正妻である。英祖より年齢が51歳下だった。
英祖の息子であった思悼世子は10歳上で、相性が悪かったこともあり、思悼世子を失脚させるために陰で動いた。
正祖の時代になってかろうじて罪を免れたが、1800年に正祖が亡くなったときは毒殺説の首謀者と見なされた。23代王・純祖(スンジョ)の後見人となり、キリスト教徒の虐殺事件を引き起こしている。
◆孝懿王后(ヒョウィワンフ) [1753~1821年]
正祖の正妻である。とても人格者で、宮中で誰もが尊敬するほど評判が良かった。
ただし、正祖との間で子供を宿すことはできず、1821年に68歳で亡くなった。今でも韓国で「もっとも徳があった王妃」として記憶されている。
◆宜嬪(ウィビン)・成氏(ソンシ) [生没年は不明]
正祖には正室の他に4人の側室がいた。その中の1人が宜嬪・成氏である。『イ・サン』でハン・ジミンが扮したソンヨンのモデルだと言われている。
正祖との間で文孝(ムニョ)世子という名の王子をもうけたが、その息子は5歳で亡くなってしまった。さらに、宜嬪・成氏は妊娠しているときに若くして亡くなったと伝えられている。
いわば、悲劇の側室なのである。
◆綏嬪(スビン)・朴氏(パクシ) [生没年は不明]
正祖の側室である。正祖との間に、1男1女をもうけた。
その内の王子は1790年に生まれていて、正祖が1800年に亡くなったあと、王位を継いで23代王・純祖(スンジョ)となった。
つまり、綏嬪・朴氏は国王の母になったのである。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
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