“ショートトラックの皇帝”と呼ばれたアン・ヒョンス(ロシア名ヴィクトル・アン)が、中国代表コーチとして指導者生活を始める。
選手として韓国とロシアの代表ユニホームを着てオリンピックに出場した彼が、2022北京五輪に中国代表コーチとして出場することになれば、2002年ソルトレークシティ五輪、2006年トリノ五輪、2014年ソチ五輪に続き、4度目となるオリンピックの舞台となる。
去る4月にロシアで波乱万丈な現役生活にピリオドを打ったアン・ヒョンスは、2022年冬季オリンピックの開催国である中国からラブコールを受け、中国代表コーチを引き受けることにした。国籍はロシアのまま、夫人ウ・ナリさんと娘は新型コロナの影響で韓国に滞在することになった。
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アン・ヒョンスは8月21日、密かに中国に出発した。まだ最終的な契約書にサインしていないが、アン・ヒョンスの待遇は特級であることがわかった。年俸は約300万元(約4600万円)に達すると予想される。
アン・ヒョンスに対する中国のラブコールは、執拗だった。2019年10月の上海ワールドカップを控えてトレーニング中だったアン・ヒョンスに接触し、「トレーニングパートナーをしてくれないか」と提案したことに続き、彼が今年4月に引退を発表すると本格的な勧誘作戦に出た。
中国側はアン・ヒョンスに超特級の待遇を提示し、熱烈な勧誘を繰り広げた。ロシアの代表コーチ職を拒んで現役にこだわっていたアン・ヒョンスは、新型コロナの影響で国際大会が相次いでキャンセルされると、自分の人生を見直すように立場を変えた。
内心、韓国での指導者生活も考えたアン・ヒョンスだが、現実的な理由から思いを内に秘めなければならなかった。韓国代表の指導者受験資格には、「指導者キャリア3年以上」という但し書きがついているからだ。
去る4月に引退したアン・ヒョンスが、中国側の提案をすぐに受け入れなかったことには、他にも理由があった。現役への強い意志だけでなく、自分に第2のショートトラック人生を切り開いてくれたロシアに対する義理も無視できなかったからだ。アン・ヒョンスの養父といっても過言ではないロシアスケート連盟アレクセイ・プルドニコフ会長との関係をないがしろにできなかったが、そのプルドニコフ会長がアン・ヒョンスの将来のために大きな心で道を開いてくれた。
ロシア側からの承諾を受けたことでアン・ヒョンスの中国行きは一気に進み、最終的に彼は去る8月21日、中国に向かった。一度、青島に渡ったアン・ヒョンスは、現地で半月ほど隔離生活をした後、北京に移って最終契約書にサインする予定だ。
中国がアン・ヒョンスにこだわった背景は、2年後に自国でオリンピックが開催されるからに他ならない。
ショートトラックの歴史のなかで最も優れたテクニシャンとされるアン・ヒョンスから技術を得て、開催国のプライドを守るというのが、中国がアン・ヒョンスを獲得した背景だ。
冬季オリンピックのショートトラック史上最多となる金メダル(6個)と最多メダル(8個=金6個、銅2個)の記録保持者であるアン・ヒョンスは、韓国代表として出場した2006年トリノ五輪で3冠(1000m、1500m、5000mリレー)と銅メダル1個(500m)に輝き、世界のショートトラックを制覇した。
2008年に膝を負傷した後、計4回の手術を受けるなど悪戦苦闘し、2010年バンクーバー五輪出場に失敗した彼は、所属チームであった城南(ソンナム)市役所の解体、パフォーマンスの低下によって選手生活最大の危機を迎えた。
2011年6月、新たな突破口としてロシア国籍を所得したアン・ヒョンスは、2014年ソチ五輪で金メダル3個(500m、1000m、5000mリレー)と銅メダル1個(1500m)を獲得し、完全復活を果たした。「ヴィクトル・アン」という新しい名前でロシア代表となった彼は、全盛期に劣らぬ技量で氷上を完全に支配した。
“トリノの神話”が“ソチの皇帝”として復活するまで、実に8年の歳月がかかったが、誰もアン・ヒョンスの再起への意志を折ることはできなかった。
ショートトラック史上、最高のテクニシャンに選ばれるアン・ヒョンスの中国行きは、はたしてどんな結果をもたらすだろうか。世界のショートトラック界が中国代表コーチのユニホームを着る彼を注視している。
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