波瀾万丈だった張禧嬪(チャン・ヒビン)の人生!

女性の容姿にほとんど触れなかった「朝鮮王朝実録」が、張禧嬪(チャン・ヒビン)だけは例外的に美しき容貌を讃えている。それほど張禧嬪は美女であったのだ。そんな張禧嬪の人生を振り返ってみよう。

張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の息子を産んで起こった騒動とは?

彼女は1659年に生まれた。1680年、張禧嬪の親族に王宮の通訳がいて、その紹介で女官となった。

やはり美貌が目立った。19代王・粛宗(スクチョン)が噂を聞いて張禧嬪を側室にした。粛宗の正妻は、1667年に生まれた仁顕(イニョン)王后だった。

正室の仁顕王后と側室の張禧嬪。立場が明確に逆転したのは、1688年のことだ。張禧嬪が粛宗の息子を産んだのだ。一方の仁顕王后には子供がいなかった。

王子の誕生に喜んだ粛宗は、1689年に仁顕王后を廃妃にした。空いた王妃の座についたのが張禧嬪であった。

ドラマ『チャン・オクチョン』に登場する張禧嬪(女優:キム・テヒ)

王妃になった後の張禧嬪は王宮の中でわがまま放題に過ごした。その態度はいかにも横暴と受け止められた。張禧嬪の評判が悪くなったが、彼女は気にしなかった。立場は磐石だ。なにしろ、粛宗の世継ぎを産んでいるのだから……。

しかし、落とし穴があった。張禧嬪が王妃になったあと、粛宗には新たに寵愛する女性ができたのだ。それが淑嬪(スクピン)・崔氏(チェシ)である。ドラマ『トンイ』の主人公になった女性だ。

淑嬪・崔氏は仁顕王后を慕っていた。粛宗は淑嬪・崔氏の願いを聞き入れて、1694年に張禧嬪を側室に降格させて再び仁顕王后を王妃に戻した。まさに、仰天の人事であった。

王妃に復位した仁顕王后は病弱であったことがわざわいして、1701年に34歳で世を去った。その直後、張禧嬪が仁顕王后の死を願って呪詛(じゅそ)をしていたことが明らかになった。告発したのが淑嬪・崔氏であった。

粛宗が激怒した。「張禧嬪を死罪にせよ」という王命を発し、張禧嬪は死罪になってしまった。享年42歳だった。

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)

前へ

1 / 1

次へ

RELATION関連記事

RANKINGアクセスランキング

PHOTO写真

TOPIC「BTS」特集