朝鮮王朝にはあまりに悲しい世子(セジャ)が5人もいた!

世子(セジャ)といえば、次の国王が約束された身分だ。しかし、朝鮮王朝の歴史を見ると、世子でありながら国王になれなかった人がかなりいる。その中で、特に悲劇的だった5人を取り上げてみよう。

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最初は李芳碵(イ・バンソク)だ。

彼は朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)の八男だった。幼いときから聡明で、1392年にわずか10歳で世子に指名された。

しかし、この決定には無理があった。野望を持つ兄があまりに多かったからだ。1398年に「王子の乱」が起きて、李芳碵は異母兄の芳遠(バンウォン/後の3代王・太宗〔テジョン〕)に殺されてしまった。

次は、懿敬(ウィギョン)世子である。

7代王・世祖(セジョ)の長男で、世祖が甥の端宗(タンジョン)から王位を奪って即位したあとに17歳で世子となった。学問を好み優秀な若者であったが、身体が弱く、19歳で早世した。

重病になったとき、21人の僧侶が必死に回復のための祈祷を行なったが、死を避けられなかった。後に、懿敬世子の息子が即位して、9代王の成宗(ソンジョン)になっている。

3人目は昭顕(ソヒョン)世子だ。

16代王・仁祖(インジョ)の長男である。1637年に人質として清に連行された。8年後、ようやく人質から解放されて帰国したが、外国にかぶれたことを理由に仁祖から疎(うと)まれ、わずか2か月後に急死してしまった。

葬儀も仁祖によって異様なほど冷遇された。後には、仁祖と側室による毒殺説も流布している。彼が父の仁祖によって毒殺された可能性はかなり高い。

4人目は、あまりに有名な思悼(サド)世子だ。

21代王・英祖(ヨンジョ)の息子である。幼い頃から聡明で後継者としての期待が高かった。

しかし、精神的な重圧に耐えきれず、素行が乱れた。英祖の逆鱗(げきりん)に触れて自決を命じられた。従わないでいると、米びつに閉じ込められて、8日目に餓死した状態で発見された。息子が名君として名高い22代王・正祖(チョンジョ)である。

思悼世子の生涯を描いた映画『王の運命-歴史を変えた八日間-』

最後は、孝明(ヒョミョン)世子である。

23代王・純祖(スンジョ)の長男だ。1827年、18歳で父の政治を代行するようになった。人事面や法制面で優れた統治能力を見せ、名君になる素養を感じさせた。

しかし、急に喀血して倒れ、わずか21歳で早世。その死を誰もが惜しんだ。

パク・ボゴムが主演した大ヒット時代劇『雲が描いた月明り』の主人公イ・ヨンのモデルとなっている。

(写真=KBS2『雲が描いた月明り』)

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)

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