518年間も続いた朝鮮王朝には42人の王妃がいた。その中には、幸福を満喫した王妃もいれば、悲惨な目にあった王妃がいた。今回は、理不尽な仕打ちを受けた「悲惨な五大王妃」を取り上げてみよう。
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◆廃妃・尹氏(ユンシ)〔1445~1482年〕
9代王・成宗(ソンジョン)の二番目の正室。成宗が寵愛する側室を呪い殺そうとしたうえに、成宗の顔を引っかくという騒動を起こしてしまう。その結果、朝鮮王朝で初めての廃妃となり実家に帰された。反省の日々を送っていたが、尹氏を嫌う仁粋(インス)大妃(成宗の実母)の陰謀によって悪評をばらまかれ、最後は死罪となってしまった。
◆端敬(タンギョン)王后〔1487~1557年〕
11代王・中宗(チュンジョン)の最初の正室。燕山君(ヨンサングン)を追放するクーデターが成功して異母弟の中宗が王に上がるとき、不安にかられた夫を精神的に支えた。しかし、叔母が燕山君の正室で父が燕山君の側近であったことが問題となり、王妃になってわずか1週間で廃妃となってしまった。本人にまったく落ち度がないのに、廃妃になったのは理不尽であった。
◆仁穆(インモク)王后〔1584~1632年〕
14代王・宣祖(ソンジョ)の二番目の正室で、1606年に永昌(ヨンチャン)大君を出産した。しかし、1608年に光海君(クァンヘグン)が王位に上がると、永昌大君は殺され、自身も幽閉されてしまった。まさに屈辱まみれだった。1623年、クーデターで光海君が追放されると、光海君の斬首を強硬に主張したが、その願いはかなえられなかった。
◆廃妃・柳氏(ユシ)〔1576~1623年〕
15代王・光海君(クァンヘグン)の正室。夫が1623年にクーデターで廃位となり、夫と一緒に江華島(カンファドド)に流罪となった。途上の船上で光海君に対し「潔く海に飛び込んで死にましょう!」と呼びかけたが拒否された。流罪は息子夫婦と一緒だったが、息子夫婦が島からの逃亡に失敗して絶命。そのことを悲観して柳氏も自ら命を絶ってしまった。
◆明成(ミョンソン)皇后〔1851~1895年〕
26代王・高宗(コジョン)の正室。元来が聡明な女性で、政治にも積極的な関与。高宗の父の興宣大院君(フンソンデウォングン)と対立したが、ロシアに近づいて日本に対抗しようとした。1895年、日本の勢力によって王宮の中で殺害された。
以上の5人が「悲惨な五大王妃」である。彼女たちにとっては、王妃になったこと自体が不幸の始まりであった。
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
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