このときも異議が続出した。重臣たちの間では「王妃はまだ若いので、元子の決定を急ぐべきではありません」という主張が多かった。
王と臣下が対立した。粛宗は次第に憤慨してきた。
「古来より“不孝の中でも後継ぎがいないのが一番の不孝だ”と言うではないか」
粛宗は重臣たちをにらみつけた。
「余の年はもうすぐ30だ。後継ぎがいないので日夜心配していたのだが、ここでようやく王子が生まれた。それなのに、なぜ元子に決めるのが早すぎるというのか! 」
粛宗は興奮しながらさらに語り続けた。
「去年の5月に夢の中にある男が出てきたので、“息子はいつ生まれるだろうか”と尋ねたら、“すでに懐妊しています。男の子です”と男が答えた。このときは本当にうれしかったし、その夢が現実になったのだ。早く元子に決めたいのは当然のことである」
ここまで粛宗が言っても、「もっと広く議論して決めたらどうですか」と重臣たちは慎重だった。しかし、粛宗は押し切った。
「すでに余が決めたことである」
そう言い切って、粛宗は初めての息子を元子にすることを決定した。誰の目から見ても、「王があせりすぎている」と思えたが、粛宗は反対意見をすべて封じた。
そして、翌年に張禧嬪は王妃にまで昇格する。以後、彼女が死罪になる1701年まで王宮の中では騒動が絶えなかった。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)