「もう一つの日韓戦」に挑むベトナム代表パク・ハンソ監督の「憎めない“正体”」

筆者をはじめとする韓国代表の番記者たちとの関係も良好で、ときたま焼酎を飲み交わすこともあった。

「慎記者は大きいね。私は170cmにも届かない。だからグランドでは死ぬほど走ったよ」。現役時代のあだ名が“バッテリー(姓のパクと動力源のバッテリーを合わせた造語らしい)”だということを自虐的に教えてくれたのもそんな私的な席だった。

そんな飾らない人柄の庶民派コーチも、2002年W杯で韓国がベスト4進出を果たすと、「ヒディングを支えた韓国人コーチ」「4強神話の隠れた助演者」として一躍、英雄視され、その流れで2002年W杯の3カ月後に行われた釜山アジア大会では、アジア大会韓国代表の監督にも抜擢された。

だが、釜山アジア大会ではパク・チソン、イ・ヨンピョら4強戦士らを擁しても、準決勝でイランに敗北。延長戦の末にPK決着で敗れた試合後の会見の前、ひとり廊下の隅でタバコを吸っていた後ろ姿は、いつになく小さく見えた。

人が良くて憎めないが、度胸が据わった勝負師にはなりきれない。そんな印象をぶつけると、否定も肯定もせず、気のいいオッサンがそうするように笑って濁すので先行きが心配にもなった。

案の定、その後に指揮したKリーグではさしたる結果を残せなかった。2005年~2007年まで指揮した慶南FCでは最高5位まで記録したが、2007年~2010年まで指揮した全南ドランゴンズでは10位で辞任。2012年から5シーズン指揮した尚州尚武でも1部昇格と2部降格を繰り返した。

いずれも地方クラブで、Kリーグのクラブ別平均年俸ランキングでも下位のほうに分類されるクラブだったことを加味しても(尚武は兵役対象のKリーガーたちが属するチーム)、監督として素晴らしい実績を残したとは言い難かった。

気がつくと韓国ではホン・ミョンボ、ファン・ソンホン、ソル・ギヒョンにパク・トンヒョクまで、かつての教え子たちが監督に転身。韓国でも指導者たちの世代交代が進み、立ち位置も曖昧になった。

ベトナム代表で何をしたのか

結局、尚武退団後の2017年はKリーグから声がかからず、実業団リーグの昌原市庁の監督に。年齢も60歳近くなり、監督としては峠を過ぎた。誰もがそう思っていた矢先に2017年9月から向かったのが、ベトナム代表だったのだ。

そして、そのベトナム代表で次々と快挙を成し遂げる。

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