韓国水泳の希望キム・ソヨン、世界水泳の痛み乗り越え東京五輪を目指す【インタビュー】

2019年09月10日 スポーツ一般 #東京五輪
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「私が挑戦する道を見守ってください」

スポーツの祝典である2020年東京夏季五輪が1年後に迫った今、キム・ソヨン(25・慶北道庁・ウリ金融グループ)の上半期は、これまで以上に熱く激しかった。

FINAチャンピオズ・スイム・シリーズの広州での第1戦、ハンガリーでの第2戦に加え、光州で行われた2019世界水泳選手権大会と、オリンピックに向けた基礎固めが続いた。

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ジャカルタ・アジア大会で優勝し、韓国水泳界の未来を担うスターに登りつめたキム・ソヨン。8月に自国で開催した世界選手権では残念な結果に終わったが、彼女は依然として東京五輪の期待の星であり、韓国水泳界の新たな道を開いていくスターだ。

早いもので、3回目のオリンピックとなる。キム・ソヨンにとって、東京五輪は最も叶えたい夢の舞台だ。現在25歳のキム・ソヨンは8年前、18歳の若さでロンドン五輪のスタートラインに立った当時とはまったく異なる状況に置かれている。五輪シーズンが近づくと同時に、国民の愛と関心は倍に増えた。

だが、それほど彼女にかかる負担も大きい。「ベテラン」「アジアの人魚姫」「韓国水泳界の看板」など、彼女が背負うタイトルは幾多にも及ぶ。

しかしキム・ソヨンは、そのすべてのプレッシャーを東京五輪のための“原動力”に変えている。3回目となる夢の舞台を1年後に控えた8月終わり、彼女はどんな思いで準備を進めているのか。

5歳の有望スイマー、“アジアの人魚姫”目指して

キム・ソヨンの水泳人生は今から20年前にさかのぼる。5歳の頃、母の手に導かれキッズスクールに通い始めたことが、水泳人生の出発点となった。水泳選手になりたいと決心したのは、それから5年が経った後だった。

「3年生ぐらいの頃、私の泳ぎ方がうまくありませんでした。母は私にきれいな水泳をしてほしいと思っていたし、矯正のために選手班に入ったら、コーチが私を上級へと上げてしまいました(笑)」

10歳にして開花したその才能が、専門家の目につかないはずがなかった。当時はコーチに言われるがまま選手生活を始めることとなったが、次々とついてくる成果に幼いキム・ソヨンも少しずつ意欲が湧いてきた。

「当時は選手として泳ぐのがあまり好きではなかったのですが、全国大会でメダルを獲り始めてからは少しずつ自分の中で受け入れられて、もっとやってみたいと思うようになりました」

キム・ソヨンの得意とする種目は「個人メドレー」だ。フリースタイル、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライと必要なトレーニングや努力は他の選手の倍だ。「子供のときは4種目を泳ぐことが楽しそうに見えていました。そう思って始めたのですが…コーチは、大丈夫かなと心配したそうです(笑)。ごく自然な流れでした」

こうしてキム・ソヨンは、「個人メドレー」の看板スターとして生まれ変わるために絶えず努力をしてきた。「他の種目に比べて大変ではないか」という問いにも、キム・ソヨンは気さくに答えた。

「大変ではあります。4種目すべて泳げないといけないし、1つでもダメだったら結果に表れるので、それだけ気を使うし…。つまり、大変だってことです(笑)」

キム・ソヨンが初めて選手村入りしたときは、まだ16歳であった。以降、キム・ソヨンは初のオリンピックとなった2010年ロンドン五輪で、堂々と韓国代表として出場を果たした。

「選手村に初めて入った中学3年生のときは、大きな抱負や目標もあり、夢が生じる段階でした。記録もたびたび更新していましたが、よりによって怪我をしてしまい、高校まで大きな大会には出られませんでした。あの頃の私は右も左もわからず、ただロンドン五輪には必ず出たいという意地が強かったと思います」

初めてのオリンピック。世界からすればキム・ソヨンは無名に近い若手だった。しかし、キム・ソヨンにとって「ロンドン」は、特別な意味を持つ場所であった。

「他の国際試合とはあまりにも違う。実力のある選手、有名な選手も多く出場していて、そこにいること自体が私にとって良かった。自己新記録も出しましたし、私にとっていい思い出ばかりでした」

成長痛、そしてジャカルタでの“栄光”

誰よりも屈強な肩を持っているかに見える彼女だが、そんなキム・ソヨンにもスランプはあった。

「21歳までずっと肩をけがしていて、激しい痛みが続いて大変でした。何か目標を持って挑戦したくてもできない、そんな状況だったので、投げ出したくなる時期もありました」

しかし、これは殻を破るための成長痛であった。2016年リオデジャネイロ夏季五輪で、キム・ソヨンは200メートル個人メドレーで準決勝に進出し、その才能を開花し始めた。以降、2017年にブダペストで行われた世界選手権では200メートル部門で決勝に進出し、6位という驚くべき成績を収めた。

「怪我が良くなってきてトレーニングをしながら、何かしなければという思いをしていたときにちょうどリオ五輪に出場しました。それからは決勝進出が目標となり、再び挑戦するようになり、気持ちが以前のように戻ってきました。そうすると視野も変わってきて、徐々に変わり始めました」

長く続けてきた彼女の努力が光を見た瞬間は、2018年の夏、ジャカルタだった。キム・ソヨンはジャカルタ・アジア大会の200メートル個人メドレーで金メダルを獲得。韓国新記録と大会記録をすべて更新し、韓国女子看板水泳スターとして堂々とその名を知らしめた。

2分08秒34、そして1位。いつも落ち着いたレースを見せるキム・ソヨンが、タッチパッドに触れるやいなや、歓喜の声を上げた。

「“本当なの?”、“ああ、ついに私やったのか”と思いました。控え室へ戻っていたとき、チームが苦しみ、私が懸命にやり続けたあの瞬間がふと脳裏をよぎってわけもなくうるっときて泣いてしまいました。でも、国歌を歌うときは泣くのを頑張って我慢しました。

選抜戦のときも良い記録を出せていました。その当時は世界ランキング1位になったときもあって。生きてきてそんなことがあるとは夢にも思っていませんでしたが、次々といい結果が出るので、準備さえしっかりやればアジア大会でも行けると思ったんです。コンディションも良かったですし、何もかもうまく行っていたかのように思っていました」

光州の教訓、“挫折”ではなく東京五輪の“前哨戦”

「あんな歓声は初めてでした。聞いたとき、胸が波打ちました」

2019世界水泳選手権大会は光州で開かれた。パク・テファンの欠場が決まり、チケットパワーを作り出す任務は自然とキム・ソヨンへと移った。自国開催の世界選手権。過度な重みを背負い臨んだこの大会はどの試合、どの瞬間もキム・ソヨンに大きな負担がのしかかり、越えなければならない山となった。

「負担がとても大きかったです。以前のハンガリー大会では準備できていない状態でも良い記録が出たので、それなりに準備しておけば大丈夫だろうと思ったら、試合会場に着いた途端プレッシャーが私を襲いました。無意識のうちに緊張していて、大丈夫だと自分に言い聞かせても体は正直でした。私が望んだレースはできませんでした」

会場を訪れた人々は、世界的なスターとともに国の名前をかけて出場するキム・ソヨンに惜しみない歓声と応援を送った。

「あんなに応援されたことは、私にとって初めての経験だったので…。歓声を聞いたときは胸が大きく波打って、必ず結果を出さなければというプレッシャーも感じました。

バタフライのときは歓声がよく聞こえますが、背泳ぎのときは水中で泳いでいるので、これまであまり声援は聞こえないんですよ。だけど、あのときは本当によく聞こえました。本当にうれしかったですが、私自身が目の前の試合に集中できず、あまりに神経を使ってしまったようです。あんな歓声を受けることなんてなかったので…」

200メートルと400メートルのどちらも、キム・ソヨンには悔しさの残る成績に終わった。試合後には「戴冠式失敗」「光州でくしゃくしゃ」などといった表現が詰まった評価が並んだ。

「私にこれまでの努力に比べて考えられない結果が出て、努力なんて無駄だったのかなと思いました。アジア大会が終わってからの1年間、この試合だけ見据えて準備したので、その結果がこれでは…」

しかしキム・ソヨンには、世界選手権もプロセスの一部に過ぎなかった。

「でも、あれだけの経験をしたから次はどんな試合であろうと、あれほどのプレッシャーはないだろうとも思いましたよ(笑)。次はこんなことが…だからまあ、あのようなプレッシャーはそうないでしょう!」

“人”としてのキム・ソヨン 「ハンバーガーが好き」

インタビューも終盤に入ったところで、水泳選手としてのキム・ソヨンではなく、1人の25歳のキム・ソヨンとしての話を聞いてみることにした。

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