甥の端宗(タンジョン)から王位を奪って即位した7代王の世祖。しまいには端宗を殺してしまった。とにかく非道な男であった。
一方、王としての世祖の功績は、朝鮮王朝の基本法典である「経国大典」の編纂を始めたことと、王権を徹底的に強化したことだ。このように、世祖は権力の中央集権化を進める一方、庶民の生活の安定にも力を注いだ。
確かに、政治的には有能な王であった。幼い端宗が政治を仕切るより、さまざまな面で成果が多かったと思われる。
とはいえ、甥や弟を殺したことの免罪になるわけではない。
しかも、礼節と名分を重んじる儒教を国教とする朝鮮王朝において、世祖は本来、正統的な王とは言えない存在だった。
もちろん、存命中には彼を非難する声はかき消されてしまったが……。
そんな世祖は晩年、心の安定を求めて仏教に傾倒していった。そうした心境の裏には、彼の周りに起きた不幸な出来事が関係している。特に、長男の懿敬(ウィギョン)の死が痛手だった。
この懿敬は、世祖の即位と同時に17歳で世子(セジャ/王の正式な後継者)に指名された。
ところが、その2年後に19歳で謎の死をとげてしまった。
一説によると、懿敬は昼寝の途中に悪夢にうなされ、そのまま死んでしまったと言われている。
当時の人たちはそのことを聞いて、幼い端宗を殺した因果応報だと噂した。
さらに、世祖は晩年になって、重い皮膚病に苦しむようになった。
なぜ彼は皮膚病を患ったのか。
こんな噂が世間に広まった。
世祖は夢の中で顕徳(ヒョントク)王后からツバをはかれたのだという。この顕徳王后は端宗の生母である。
「よくも愛する息子を殺したな」
世祖の夢に出てきた顕徳王后は、鬼の形相で世祖にツバをはいた。それが原因で世祖の顔に皮膚病が広がったという。
「まさか、本当に呪いなのか」
心を惑わせた世祖は、仏教に救いを求めたが、果たして安寧は得られたのだろうか。彼は1468年に51歳で世を去った。
彼の死後にも悲劇は続く。
世祖の後を継いで8代王になった二男の睿宗(イェジョン)も兄と同じく19歳で世を去った。
世祖の因果応報は、彼の死後も続いたのである。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
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