『雲が描いた月明り』の主役だったイ・ヨン(孝明世子)の本当の人生は?

パク・ボゴムが『雲が描いた月明り』で演じた主人公のイ・ヨンは、歴史的には孝明(ヒョミョン)世子と呼ばれた。

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彼は23代王・純祖(スンジョ)の長男として1809年に生まれた。母は純元(スヌォン)王后である。

幼いころから聡明で、わずか8歳で最高学府の成均館(ソンギュングァン)に入学して、さらに学問を積んだ。

孝明世子は立派な青年に成長し、18歳から父に変わって政治を代行した。純祖は孝明世子の才能を高く買っていて、早くから政治の表舞台で経験を積ませたいと考えたのである。

孝明世子が政治を代行した1827年当時、母の純元王后の実家であった安東(アンドン)・金(キム)氏の一族が政権の中枢を占めていた。そうした困難な中で、孝明世子は優れた統治能力を発揮した。

特に、人事を刷新した。それは、安東・金氏の専横を抑えるためで、新しい人材をどんどん登用した。その際に重用されたのは、孝明世子の妻の実家である豊壌(プンヤン)・趙(チョ)氏の一族だった。

その中で、岳父にあたる趙萬永(チョ・マニョン)は孝明世子の後押しによって最大級の出世を果たした。

また、孝明世子の業績で特筆すべきは、宮中行事を改善して冠婚葬祭の典礼を新たに整備したことだ。朝鮮王朝は儒教を国教にしているので、先祖に対する祭祀は最重要な儀式に位置づけられていた。そうした祭祀においても、孝明世子は自ら先頭に立って礼楽を整えたりした。

『雲が描いた月明かり』より

彼は次々に実績を作っていった。民衆のために刑罰を改めたりもした。その統治が続けば、朝鮮王朝は様々な面で改革が進んだことだろう。しかし、孝明世子の最大の課題は健康問題であった。

1830年、孝明世子は喀血して病床に伏してしまった。王家の治療チームの中に、漢方薬に詳しい官僚も加えられた。当時の朝鮮王朝の中で漢方薬の専門家が身分を越えて集められたのである。事態はそれほど深刻だった。

結局、孝明世子は21歳という若さで亡くなった。誰もが朝鮮王朝の未来に希望を持てなくなってしまった。

政治を代行した期間はわずかに3年間だった。あまりに短いと言わざるをえない。しかし、その期間になし遂げた業績も多い。

もし国王になっていれば、世宗(セジョン)と同様の名君になっていたことだろう。早すぎる死があまりに惜しまれた。

(文=康 熙奉/カン・ヒボン)

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