1720年に19代王の粛宗(スクチョン)が世を去り、張禧嬪(チャン・ヒビン)が産んだ景宗(キョンジョン)が20代王として即位した。トンイこと淑嬪・崔氏(スクピン・チェシ)が産んだ英祖(ヨンジョ)はこの時点では王になれなかった。
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せっかく国王となった景宗であったが、彼の体調が悪化したのは1724年8月20日のことだった。
夜になって、景宗は胸と腹に激しい痛みを感じ、医官の診察を受けた。この日にはケジャン(蟹を醤油漬けにした料理)と柿を食べており、当初はただの食あたりと思われた。
景宗は煎じ薬を処方されて安静にしていたが、22日になると腹痛と下痢がひどくなり、23日には下痢が治らないまま身体が衰弱した。24日に深刻な病状となり、医官たちがあらゆる手を尽くした末、25日に亡くなった。その結果、死の直接の原因となったのは“蟹と柿の食べ合わせ”とされた。
しかし、いくら病弱とはいえ、それだけで死に至るものだろうか。
「景宗に出された蟹に毒が入っていたのではないか」
景宗に代わって異母弟の英祖が即位した直後から、そんな噂が流れるようになった。
実際、医官たちは蟹と柿を景宗の食卓に出すことを反対したのだが、英祖がその反対を抑えて景宗に食べさせたという経緯があった。それが景宗毒殺の首謀者に英祖の名前があがった理由だった。
しかも、1724年8月24日に景宗の病状が深刻になったとき、治療法をめぐって英祖は医官たちと再び対立していた。特に、英祖は人参の煎じ薬を処方することを強く意見してそれを強行した。その深夜に景宗は世を去った。
英祖は専門医である医官たちの意見に耳を貸さなかった。疑われても仕方がないような状況を自らつくってしまったのだ。
はたして、本当に英祖は兄の景宗を毒殺したのか。
景宗には子供がいなかったので、彼が亡くなれば英祖が王になれることは明白だった。そういう意味では動機があり、怪しいのは確かだった。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)
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