そして、文定王后と鄭蘭貞が組んで起こしたのが1527年の「灼鼠(しゃくそ)の変」だった。
それは、どんな出来事だったのか。世子(セジャ/王の正式な後継者)が住む屋敷の庭に、火にあぶられたネズミの死体が木にくくられていたのだ。それだけでなく、王宮の中心地でも焼け死んだネズミが見つかった。
世子は子年の生まれだった。不可解な出来事は世子の将来を不吉に見せる仕業だったのである。
疑われたのが、敬嬪・朴氏だった。彼女は、文定王后と鄭蘭貞によって悪い噂を流されてしまっていた。
結局、敬嬪・朴氏は王宮から追放された。文定王后と鄭蘭貞が仕掛けたワナにはまったのだ。
鄭蘭貞の行動力を認めた文定王后は、以後も何かと手先として鄭蘭貞を重宝した。「王妃から認められている」
そんな意識を持った鄭蘭貞は、図に乗ってしまった。悪政の張本人であった尹元衡と共謀して彼の妻を毒殺し、その後釜にすわった。
最終的に鄭蘭貞は、従一品の品階を授与された。この品階をもつと、「貞敬(チョンギョン)夫人」と尊称される。最下層から最上位まで上がったのだから、鄭蘭貞が有頂天になるのも無理はなかった。
しかし、転落が待っていた。
1565年に文定王后が世を去ると、後ろ楯を失った尹元衡夫婦は、急に肩身が狭くなった。王宮には、悪行を繰り返した夫婦を恨む人が多かったのだ。
「殺されるかもしれない」
恐ろしくなった夫婦は、王宮から逃げ出し、田舎でひっそり暮らした。
それでも、「追手がやってきて殺される」という恐怖心が片時も離れなかった。
結局、鄭蘭貞と尹元衡は自害した。
このようにして、史上最悪の夫婦は、まるで因果応報のように絶命したのである。
(文=康 熙奉/カン・ヒボン)